◎お互い切実な願いを持つ。なる程、お詫びも大事、御礼も大事。けれども私は、青年の方達の信心は特に、願いに燃えないけん。しかも、それは切実なもの。だからこそ、時間励行。時そのものが神様なんだ。またそれは、一番大事な自分の生命なんだ、時は。ここに時間励行の値打ちがある訳なんです。ね。そういう生き方なんだ。そういう生き方がおかげを受ける受け物になってくるんですからね。M
%1石井かおる重体
%2秋永徹の一生懸命
昭和四十三年二月八日 夜の御理解
象牙を買いました時に、この象牙は生きた象牙か、死んだ象牙かという事を見分けるのに、水滴を置いて見る。そうすっと、この、これに水を落としてましてですね、水滴がこれに止まるものであったら、生きた象牙だと、水がぽろぽろと落ちてしまうのは、死んだ象牙。そういう見分け方があると聞いた事があります。
若い、例えば、青年の方達の信心に、生きたものを欠いだら、もう値打ちはないです。生き生きしたものを欠いだら、ね。元気な心を欠いだら、若い人の信心の値打ちはない。生き生きした心を持って、元気な心で信心が出来る。ね。
例えば、あの、お水を掛かりましょう。そうすっと、この、やはり生きております者の肌には、水滴が止まるでしょう。ところがもう、死んだ者には、水滴は止まらない。と言う様にですね。水滴という事は、まあお恵みと、おかげとこう言います。ここで。
そういう生き生きとした事だけでも、おかげを受け止める事が出来るのです。生き生きした信心。ですから、そういう、その生き生きとした信心をさして頂いて、そのお恵みの水を受け止めれるには、生き生きとした信心が、いわば、ね。 がろくそでも〈水滴の様な物〉。ね。やはり、お恵みの水を欲しいなら、やはり〈生き生きしたものがなければならない〉。
沢山のお恵みの水が欲しいなら、大きな受け物を用意しなければならない。ね。一升枡持っていきゃ、一升。ね。一斗枡持っていきゃ、一斗。ですから、私は、その、受け物と言うのは、ただ生き生きしたというだけではいけない。ね。元気があるというだけではいけない。ね。そこに、私は教えを、この頂かなければならん。ね。そして、教えに基ずいた所の、そこにおかげの教えというものが頂ける。
そこで何と申しましてもですね。お互いが切実な願いを、持たなければいけないと思うですね。願いを、ね。それが、ただ大きな事だけでなくて、切実な願い。私は、ここ二、三日、徹君のお届けをさして頂くんですけれども。それも〈しっかり〉切実なんですね。第一、あの弟が、今度大学入試を致します。試験を受けるから、もう弟の事を一生懸命願う。その為に、僕は、まあ修行をさしてもろうてもいい。「どんな修行でもさしてもらおう」とこう言う訳なんです。
%1もう一つは、石井潔さん所の奥さんであります、かほるさん。徹君のおばさんになります。もう、この頃から、もう丁度、あの、その朝ですね、久保山のお母さんが頂いておられました。今日は先生、今朝からお夢を頂きました。『合楽で、この人が亡くなったら困るという人が、亡くなった』というお知らせを頂いた時にです。あのもう、かほるさんの〈表示〉があったんです。本当に、あの人は夢の中で、あの人が亡くなったらね。三人の子供、それに年寄り、主人を残していくなんて、大変な事なんだ。
%1もう心臓が止まっておる。もういよいよという所で、親戚中に電報を打ったり、いろいろまあ、 もさして頂いたのでございますけれどもね。丁度、そういう朝だったもんですから、私も、ちょっとびっくりしました。ね。それで、まあ、私は一生懸命その事を、お願いさして頂きましてからですね。
%2その晩、徹君のですね、お届けでですね。非常に力強いものを感じました、私自身が。叔母さんがこうやって、大変重体であります。その為に、「僕はどげな修行でもします」と言った様な切実さなんですね。願いが。勿論、この去年もすべっておりますから、弟の大学入試の事も、非常に兄さんとして、その、何かこう親身なんですね。その情感を通わせているんです。その弟の方の大学入試の事については。
%2だから、その事に一生懸命なんです。と同時に、叔母さんのその事ですね。「ほんなこつねえ。本当に、いくら願うとかすがるとか言うけれどもね、血の繋がった者でないといかんよ」と、私が。だから、「僕が一丁本気で、一生懸命願ってくれ」と言うて、私も頼みたい気持でございましたが、おかげを頂いてから、今日は、あの、〈ひとつ〉若先生と見舞いに行きました。
余談ですけども。大変もう痩せ切れておりますけども。涙が出るぐらいにおかげを頂いた。えー、もしかしたらと言うておりましたがですね。あの、そういう切実な願いを持ちますとですね。どげな修行でも致しますという様なものが、必ず伴ってくるんです。それがね、ね。
本気で修行をさしてもらいましょう。本気で神様に喜んで頂ける、あり方にもならしてもらいましょう。というその切実さが出てくる。ね。だから、切実な願いを持つという事は、非常に有難い。今日は生きた信心をさしてもらいましょう。
これは若い者の特徴と言われる位に、どこから、あゝいうエネルギーが生まれるかと言う様な、そのエネルギーの持っていきどころがない。それが、例えば、生き生きとした表行と言った様な事にまで、〈なってくる〉訳なんです。ね。若い時でないと、なかなか出来るこつじゃない修行である。
それをです。表行そのものを、神様が喜びなさる訳じゃないから、それじゃおかげは受けられんけれども。水滴ぐらいは受け止める事が出来ると言う事。神様の水滴と言っても、神様の水滴と言ったら大変なものですよね。これは死んだものにはです。心が死んでおります。枯れておるもの、これにはいくら、水を掛けたっちゃ、受け止める事は出来ません。ね。
それは、死んだ象牙か生きた象牙か見分け方、それと同じ事なんだ。ね。ですから、若い時に、そういう様なピチピチとした信心をさせてもらう。修行もさしてもらってです。そして、そういう信心を持って、お互い切実な願いを持つ。なる程、お詫びも大事、御礼も大事。けれども私は、青年の方達の信心は特に、願いに燃えないけん。
しかも、それは切実なもの。それは徹君が、弟と叔母さんのその事に対して、特に、その切実さを持って、お取次を願っておる様なものだ。ね。そこで、ならそこに受け物をね、今度は造らなきゃいけない。その生き生きしたそういう心で、今度はおかげの本当の受け物を造らして貰う。そこにも、生き生きした心で取り組まさせて頂こうと、こう言うのである。
私、今ちょっと、泉尾という泉尾教会の親先生の話された事を、読ませて頂いておって、はあ何か、もう元が大事だなあ。私は、どうも元を欠いた様な話をしておったなあ、と思う事があるのですよ。というのは、私は、いつも時間の事を申しますね。時間励行。時間を大事にせなあいかん。
それにはね、やはり例えば、いろんな会合の時に、いうならば汽車にでも乗るごたる気持ちでです。若先生達が、八時の汽車に乗る為には、やっぱり、日頃十分前には、遅くとも来とらなきゃならんのだ。十分遅れでも、汽車は出るのだ。そういう心持ちで時間を大事にせよという事を、そういう意味の事を、私は説いたんですね。今まで。
ところが、そのなぜ、そういう様に大事にしなければならないかという事を、説かなかった様に思う。ね。時間を大事にせないけませんよ。それには本当に、例えば、八時の御祈念なら、八時の御祈念。七時なら、七時の御祈念に間に合う為なら、八時半なら八時半迄に出て来とらなあ、もう間に合わん。それ位の気持ちで時間を大事にせよ。
ところが、これはやはり、あの根本的なものじゃないですね。ただ時間を大事にするという事に、間違いはないけれども。なぜ大事にしなければならないかと言う事を話ておられます。少し、ですから読んでみましよう。
「親先生は常に生きる事を問題にされていられますが。より良き生き方をして行くには、色々と口に努力を積み重ねていかなければならんでしょうと思いますが。それを一番心得るべき所はと言う質問に対してですね。泉尾の親先生は、こう答えておられます。
人間が生きると言う事を問題にする時、必ず、色々雑多な出来事に出会うので、えー、 なりが問題になって来る。だから一番肝心な事と言われても、全てが一番肝心という他はない。」ここが素晴らしいですね。この事だけと言うのじゃない。全てが一番肝心と言う他はない。
それには心構えも必要であるが、色々雑多な〈現実〉の中での事であるから、生き生きする生き方。良い生き方がどうすれば良いか、どうあれば良いかという決め手などあろうはずがないと思う。そこの所を良く心得てもらって、一番心置くべき事は、そういう事を、何が一番大事という様な事を、皆が、全てが大事。そういう事を、自信を持ってと言う訳なんです。ね。
そういう事を心得て於て、一番心すべき事は時、時間であると思う。時間を一番に問題にする事が、いるのではないでしょうかと。無論、時を問題にすると言うても、そこには、必ず人間関係が関わり合い、物の取り合いと言う事もあり、人の問題、物の問題になってくるのであるが、その時を生かすというか殺すというか、その事によって、生かされながら生きられる。
恵まれていても、そのお恵みが身に付かぬ事になる。生きるという根本の中に時間が実に大事であると思う。「人間は時の中に生かされ生きているのである」と言う風に説いておられる。最後の所に、世の中には、時は足りないと言いますが、私は、時は足りない。「時は生命なりと思います」と言うておられます。
はあ私は、いつもここん所を言わずに、時を大事にしろばっかり言うておった様な感じがするんですよね。心掛けとしては、確かに汽車にでも乗る時の気持ち、ね。駅に走って行く気持ちで、時間を大事にしなければいけない。只、心持ちなんだ。
けれどもなぜ、それを大事にしなければならないかと言う事は、もう時は金なりである。時そのものが神様なんだ。またそれは、一番大事な自分の生命なんだ、時は。ね。私はその説かせて頂いくでも、やっぱりその根本の所をですね。説かなければいけないなあ。だからなぜ、それが、時は金なのか、なぜ時は生命なのか。そういう様な事を、皆さん共励されたら、いい答えが出てくるんじゃなかろうかとこう思います。
そして本当に、時は金なりと言う事が分からせて頂いたら、ね。そんなら、四六時中なんかしとかなければいけないと言うのじゃない。時間を大事にすると言う事は、寝る時には寝る時間がいつも〈決め〉とかなければいけない。ね。テレビを見る時は、テレビを見る時間がきちっとしとかなければいけない。
そこん所をです。寝る時間やら、テレビを見る時間やら、御祈念をする時間やら、なんやらかんやらごっちゃに、しだごだにするという事が、私はいけない事だと思うのですよ。ね。それも時は金なりと言う。いわば立場にたってからの考え方でなければならない。だから、例えば、時間を大事にすると言った様な事は、汽車に乗る時の様な心掛けで、私共が大事にさしてもらわなければならない。と言う様な事を思いますね。
それがどういう事になるか。時をどうでしょうか、時を金なりと言う様な頂き方に出来る時に、時を大事にする。そこにね、おかげの受け物が出来て来るのですよ。ね。神様を大事にするのですから、おかげの受け物が出来ないはずがないでしょう。ね。
生き生きとした信心によって、水滴を頂けるなら、受け物を持って、それが大なり、小なり違いましょうけれども。その受け物全部で、お恵みの水を受け止める事が出来る。それを今日は、私は時は金なりということをです。湯川先生じゃない、玉水の先生じゃない。泉尾か、泉尾の先生がおっしゃっておられる。ね。
その時は金なりという事を、ね、皆さんが、本当に時そのものが神だ。またそれは、自分の生命にも匹敵する程の大切なものである。為に自分達がですね。その時間をお粗末にしておる様な事はなかろうか。自分がお粗末にしておるばっかりに、人にまでお粗末をさせる様な事はかろうか。
ここに時間励行の値打ちがある訳なんです。ね。そういう生き方なんだ。そういう生き方がおかげを受ける受け物になってくるんですからね。どうぞ。